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- 2014.07.27 Sunday |
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マームとジプシー「まえのひ」について
新宿の楓林会館という、一昔前のキャバレーが入っていたかのような入口が寂れたドアで始まる昭和空間が舞台。
通されたソファの真ん中を、はさみで切ったように空間を真っ二つに裂く花道が通り、その末端にセットされたお立ち台とスタンドマイク、花道の先に円台と、反対側に設置された2段の箱の舞台。
わたしのだいすきな川上未映子の短編集「先端で、さすわさされるわそらええわ」と文芸雑誌に寄稿された書き下ろしの短編「まえのひ」を藤田貴大氏が戯曲化した舞台を観に行ってきた。もう数週間前のことになるけれど。
寺山修司氏のアヴァンギャルドポスター展にも出向いてみて、天井桟敷の計算された「なりふり構わず感」も好きだけれど、マームとジプシーみたいな「静かな絶叫」も好きだなあと思う。
なにより、看板女優の青柳いづみさんがたまらんくらいかわいい。けどすごく尖っていて、近づくと痛みすら感じず殺されるんでないのってくらい殺気立っててイイカンジ。
基本的に、いわゆる「芝居」はなく、川上未映子のあの独特のセリフの反復と関西弁、まくしたてるかと思えば急にぽつぽつこぼれるように語る口調を青柳さんが体現していく。
「先端で、さすわさされるわそらええわ」の赤いハイヒールとワンピース、鳥の羽のついたヘッドドレスとセリフが掻き消えるくらいの爆音のエレキギターとマイク片手に向かって叫び倒す演出、どストレートでいい。
「まえのひ」だけは小説を読まずに観賞したけれど、2011年の東日本大震災を題材にした小説だということは前提として知っていた。
「いつも、だれもが、何かが起こる前の日を生きている」というメッセージ性をこめましたという川上未映子のコメントを何かで読んだけれど、その「なにか」を「崖」という行き止まりで受け止める女の子の話。
前にも進めず、もどる場所もない子が、おそらく来るであろう明日を、寝たきりのお婆ちゃんと毎日恐る恐る迎える日々。いつしかその「恐る恐る」という感覚も鈍ってきて、ただおばあちゃんの口に流動食を運びつづけていたらいつしか崖がひっくり返った、というのを、青柳さんが舞台上のはしごから軽く飛び降りるだけで見せる、という演出。
地震のことを想うというよりは、違う次元でとても苦しさを覚える舞台でした。
もしかしたら数秒後、「誰でもいいから殺りました」という理由でわたしが殺されるかも。そういうぎりぎりの刹那を生きている感覚が、どんどん遠のいていくことの空恐ろしさと絶望感と、だから生きていけるという矛盾がなんとも苦しいなあと。
ちょっと先の未来を憂えたら生きていけないから、ある程度鈍感であることはとても重要なのだろうけれどでも。
川上未映子の小説を読み返したくなった。彼女の長編はぜんぜんおもしろくないけど、エッセイと短編集は何回も読み直す。
世の中に対する嫌悪感を感じながら、世界は好きな人や好きなものを掌握しているからそれがとても悔しくて、自分も組み込まれることを自覚しようともがく人がたくさん出てくるのが好きなのかもな?
9月には藤田氏は野田秀樹の「小指の想い出」を演出なさるそうで。はあ、たのしみ。
- 2014.07.27 Sunday |
- tHe sTAgE |
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ことばはいつも間に合わない
欠点、と言えば、すぐ思い浮かぶのは口下手であること。
頭で考えながら、しゃべろうとすると、えんやこらいろんな道を寄り道しまくるから、
結局ことばに詰まって黙ったりどもったりする。
これを言ったら相手はどう思う?
このことばは適切?
この答えとあの答えとどちらが一番しっくりくる?
そのしっくり、は、わたしのしっくり?相手のしっくり?
15歳くらいまでは4人のわたしがいて、とにかくうるさくて、
正義感とエゴイズム同士が胸ぐらつかみ合いの喧嘩をしていて、
それをマイペースな一人のわたしが眺め、何も言わず、
もうひとりのわたしが冷ややかな目で見て分析、という構図だった。
でも最近は、ようやっと自分のだいじなものと、
そうでないものが、明確にぷっつり切り離されたから、
何を選ぶべきかはすぐ分かる。
だから4人が3人に、3人が2人になり、今は大体
主観(平常)と、わがままなわたしと冷静なわたしの2人が出入りしている、だいぶ口数は減った。
ただ、その選んだものから最適、最高のものを導き出すのに
まだ時間と労力がかかってしまうのだろうな。
そういった選択を重ねつつ、想いや考えを表出させるには
口でしゃべるより、書くほうが早い。
書いている方が、ことばがすらすら出てくるし
自分の思っていることに、きっちり当てこめる、適切なピース(ことば)を見つけられる。
なぜだか考えているけれど、一番単純明快な原因は
ことばの矛先の違い。
口で喋るとき、そこには必ずことばを向ける第三者がいて
そして殆どの場合、相手と顔を突き合わせている。
だから空気を共にすることで生まれる、ことばの化学反応みたいなものに
一喜一憂してしまって空回りする、ということが多い
書いているときは、ベクトルはあちこちへ自在に動く、動かせる。
時には、こちらが意図していない人へ刺さったりもして、それはそれでうれしい。
けれど結局、わたしにとって書くという行為が
息を吸ったり吐いたりするのと同レベルの孤独な作業で有り続ける以上は
まず、誰に向けて書いているかって自分のためであるのだろうよ。
読まれているかどうかは二の次。
ただし、それが許される場とそうでない場、どちらも設けておくべきなのかなとも思う。
息を吸ったり吐いたりしているだけでも、
時々「わたし生きてるよ!」って第三者に叫びたくなる時があるのと一緒で
ここだよ!って書いた言葉で叫びたい時がある。
そういう時は、自分のリズムだけで呼吸していてもなかなか世界の流れには乗っかれない。
だから、周りを読んで合わせて一緒に吸ったり吐いたりする必要も出てくる。
合わせることばかりしていたら疲れるけれど
書いた言葉が叫びたがったらそういうことも必要なのだろう。
でも、しゃべることばも書くことばも、結局いつも中途半端。
どこかいつも、体で得た感覚の8割ぐらいしか表現しきれない。
ことばを当て込んだ瞬間無味無臭になるものが多い。
逆も然り。
いつだって、ことばは感情の尻切れとんぼ。
重ねれば重ねる程白々しく見えることは易い。
嘘をついたらつきつづけなければならない原理と一緒。
それでも「書く」ことばに真摯でありたいと思うのは
書いている間、書いている人はみんな孤独であるという前提があるから。
受け取る側にもいる限り、その孤独からこぼれた
なんとかカタチになって生まれてきた意味とか物語とかを
わたしのことばの概念を介して、にはなってしまうけれど
きちんと見届けたいと思ってる。
理路整然としゃべることはできないけれど
ことばの受け皿だけは広く深く構えていたい。
そうすれば、「しゃべる」ことばに対して理解の瞬発力が欠けていても、すくいとれる。
だから結局、わたしが見届けようとしているのは、
ことばという字面ではなく、その裏側、と、生み出されるプロセスなのかも。
傷つけたり癒したり、裏切ったり信じたり、ことばの汎用性ったら。
追いついていないのはわたしのほうかな?
- 2014.04.08 Tuesday |
- oRdinAry daYs |
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くじらを喰べるクニ、食べないクニ
眠らない夜に途方もない、終の見えない問題を取り上げることは
いささかしんどい、なにせ夜は終わりのないものの代表だから。
当人を目の前に、その人を語るような、なんとも恥ずかしいような気まずいような。
でも長らく考えていたことでもあって
けれど考えているだけでは1mmも解決しない
その途方もなく終わりのない夜のような出来事について
眠らず書く、夜に化かされたように。
さて少し前だがHuffington Postから流れてきた記事でこんなものがある。
安倍首相がイルカ漁に言及した記事。
時折、米粒ほどの脳みそに詰められた知識をごちゃごちゃ組み合わせて
決して整頓できていない理論ではあるが社会問題について悶々と考える。
解決を目指すわけではなく、
もっぱら捉え方を変えよという結論に行き着くわけだが
この問題だけはどうにもこうにも厄介である。
厄介、どころじゃ収拾がつかないほど、厄介なのである。
そもそも、記事を見つけたとき、Huffington Postではタイトルにあったのは「イルカ漁」であり「捕鯨」ではない。
おや、と思う。
今まで問題として取りだたされていたのは捕鯨問題ではなかったか?
いつから鯨がイルカに?と思ったがこれは後半で余力があれば言及したい。
和歌山県の太一町という小さな街は、江戸時代から続く追い込み漁で捕鯨を行ってきた。
しかし、この太一町が注目される的となったのは、
その伝統的な方式と食文化ではなく、動物殺しの野蛮なニッポン人としてで
スキャンダラスに世界中に報じられた。
「The Cove」という映画に反捕鯨の活動は一挙に集約され、アカデミー賞まで獲得した。
箔がついた「反捕鯨思想」はますます加速し、反対運動も過激化した。
一体、太一町で漁師たちは、世界的非難の目を向けられて
毎日どんな気持ちで漁に出ているのだろうか。
善悪の区別がつく前から行われていたことが
急に反感を買ってしまう事への戸惑いは尽きないに違いない。
しかし、”わたしが”この問題を厄介だと捉えるのには大きな理由がある。
鯨の肉を食べる習慣が、そもそもわたしには無いのである。
スーパーで売られているかもしれない。
すぐに買ってきて調理できるのかもしれない。
けれど、もし同じお肉を食べようと思うなら、安い鶏肉を買うし、
そもそも鯨の肉ってどんな味なの?というところから始まるのだ。
そんな人間が、捕鯨は文化だなどと声高に言えるはずがない。
太一町の漁師たちの誇りを滔々と聞かされても、同情の域を超えない。
非情、そうかもしれない。
けれど、知らないことを盲目的に擁護することは恐ろしい。
今、雪の荒れる夜に化かされているように
大衆の一声に化かされて、自分の意思がまるでそこに汲まれているかのような錯覚を覚える。
SNSが普及することで起こる熱量は、これに起因する。
誰かの声が、まるで自分の声のように跳ね返ってくる。
それでこころが満たされるなら、いい。
満たされて、救われるなら、それでいい。
けれど、恰も自分のことばとして語るとき
それは穴だらけの旗を目標の反対方向に向かって降っているだけかもしれない。
なにせ、実感として旗の意味も、なんの為に振っているのかも、自覚していないのだから。
捕鯨の話へ戻る。
「The Cove」が動物愛護団体によって「人間の身勝手さ」を説くいい材料になったことは間違いない。
ただし、捕鯨が本当に「勝手」であるかは、鯨を食べないわたしにしても疑問である。
というのも、狩猟民族として生活していた地域や時代があり
牧畜や農耕技術が進んだ今でも、狩猟生活をしている民族や国は世界にもいる。
事実、捕鯨を行っているのは日本だけではなく、ノルウェーやアイスランドも同様である。
その中で、なぜ日本だけが非難されるのか?
反捕鯨運動の中心はオーストラリア、英国、アメリカである。
彼らもかつて捕鯨を行っていた国々だが、鯨油高騰と石油の出現によって、徐々に捕鯨は衰退した。
その後産業発展による環境破壊が問題視され、動物への影響を懸念する声が増した。
環境保護を声高に叫ぶようになってから、くじらがそのシンボルとして祭り上げられるようになった。
そのうち、くじらを守れという意向が高まった、けれど。
くじらを守ることと、くじらを獲らないということはイコールではない。
同じ生き物であっても、森林を伐採することは批難されない。
他の木に日光が充分当たるように、年老いた木を切って、わりばし等に加工する。
それは果たして自然破壊と一括りにしていいことか?
答えは否。
どうぶつも、生態系という輪っかに乗っかるいきもので
人間も僭越ながらその輪っかに参加していて、
数珠のように連なる命が命を、食い食われしてつながって輪っかになっているのだ。
無作為にくじらを獲って食べようっていうんじゃない。
その輪っかが途切れないように、若木に栄養が行き届くように
くじらを獲るし、木を切る。
密猟と狩猟の違いは、その輪っかを壊すか壊さないか。
どうぶつが殺戮される瞬間を好き好んで見る人は、あまりいないと思う。
だから、牛や鳥や豚が人間が食べるために生まれて食べられるために死んでいくのを
最初から最後まで見ていたら、その輪っかは揺らぎ出すんじゃないかな。
そもそも、家畜っていうのは、輪っかから外れたところで、別のサイクルを作っている気がする。
言ってしまえば、反捕鯨を訴えるひとたちは
くじらが家畜化されたら何も言わなくなるんだろうなと思う。
人間のために生まれて、人間のために死んで、人間のために食べられるのが使命だから
人工的に繁殖させてたくさんくじらを育てて獲って食べたら
道理には背かない、少なくとも、くじらを獲ることへの批難はなくなるだろう。
けれど、そのくじらたちは、輪っかから外された、べつのいきものになる。
そのべつの輪っかは、時折、地球がつくるリズムを脅かそうとビームみたいなものを飛ばしてくる。
簡単には崩れないけれど、地球がつくった輪っかが消えるとき、
家畜化したくじらや牛たちが生きる輪っかもろとも消滅する。
遠まわしな自殺、とでも言おうか。
わたしは、くじらを食べない。
同じ哺乳類だから、なんとなく、薄らぼんやりとした親しみも感じるし
もしスーパーでくじらと魚が並んでいるのを見たら、きっと魚を選ぶだろう。
でも、くじらを獲ることを野蛮だと一蹴することも違うと思う。
ましてや、乱獲していた歴史に目を背けるのか、と。
自然の輪っかを乱さずに、アニミズムに根ざした尊意が残り続けるならば
わたしはそれを文化という言葉に収めずとも、許されることなのではないかなと思う。
むやみに文化だ伝統だと謳うと、余計白々しく、空っぽの高尚さばかり磨かれるようで。
それに、歴史をともにせずに、文化や伝統の根本を相互理解することはできない。
分かり合えないけど、分かろうとすることが最低最高で、理解の限界だと。
太一町の漁師たちと、すれ違いざま、吐き捨てるように暴言を吐く「シーシェパード」の人たち。
一時の正義感は満たされるかもしれない。
ほんとうに、こころの底からくじらを殺さないで欲しいと思っているかもしれない。
それなら、殺すなという価値観を押し付けず、
同時に、捕鯨は文化だと曖昧に胸を張るのでもなく
互いになぜそう思うのかを話さなければならない。
話したところで解決はしない。
でも批判しあっても仕方ない。仕方ないよ。
だってどちらも間違っていないから。
それに、何よりわたしの頭に残るのは、暴言を吐き捨てるオーストラリアの人々や
耐え兼ねて顔を真っ赤にして悔しがる漁師たちを
太一町の子供たち、オーストラリアの子供たちが見ているということ。
子供は親を見て育つ。それはどこでもいっしょ。
エゴイズムが知らないところで植えつけられて
子供のうちから頭がカチカチになっちゃうことを危惧している。
だからといって、わたしはどうすることもできないのだけれど。
自分の言葉に驕るなかれと言い聞かせ続けてきた。
でもその言葉を信じる信じないに関わらず
人はちょっと隙を突いてすぐ怠けたがる。
生き残るためのエネルギー充電法か知らないけど
無駄のありかを見誤ったらいけない。
諸々を考えるときの頭の回転がかつての半分位の速さになっている気がして。
切り返しがどっちらけだったり、意図が横道に逸れたり。
軌道修正して頂ければいいけれど、
遅延した電車がどんな言い訳見繕ったって人々のイライラは消えないもの。
相互に理不尽なイライラが蔓延してはハラハラ。
理解を試みようという姿勢を絶った時点で望み薄。
めんどうだからね、ラクな方へ流れて命の節約したくなるのが人間だからね
ちょっとそれっぽいこと並べ立てて雄弁震えば
さも金ピカの鎧を胸張ってまとう、どんな荒波荒業荒くれ者も一突きさ
っていう顔ができるもの。
その一突きされた相手が不意打ち食らってキョトン顔してるうち
金ピカの鎧はますます誇らしげにピカピカ光ってまぶしくって
でも結局太陽の光を集めすぎて火傷しちゃうんだけどね。
- 2014.04.03 Thursday |
- th!nKinG WoRds |
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いつでもどこでも荷物が多いのはどうしてだろう
小学生の頃から荷物が多い。
ランドセルの上にリュック、高学年になるとマセてトートバックを肩にかけていた。
中学生、荷物がいっぱい入って頑丈だからという理由で選んだYONEXのテニスバック(リュック)と
お弁当用の小さい手提げを持ち歩いていた。
この手提げが、何故か膨張して3年間でまたトートバックに。
高校生、中学生から使い続けたリュックを引き続き背負い
やっぱりお弁当用の手提げは欠かせない。
けれど学校に行けなくなってからは荷物を持っていくのさえ鬱屈していた、から、この期間は手ぶら。
大学生、おしゃれなバックを肩から下げてみるもののすぐリュックに逆戻り。
今は実用性重視と割り切って、何種類かのかばんをTPOに則って使い分ける。
それプラス、小さな手提げや紙袋はもれなく付いてくる。
まあ我ながら小さい頃から肩を鍛えすぎだなと呆れるほど荷物が多い。
何が入っているのかといえば、小学生の頃はいわゆる○○セットが多い。
給食セット、体育着セット、図工セット、書道セット・・・などなど。
中学生の頃は図書館で借りた本がいつも数冊入っていて
高校生の頃は教科書や勉強道具を持ち歩いていた。
大学生になってからはパソコンとその周辺機器、そして本とノート数冊。
べつに何か特別なものを持ち歩いているわけではないのに
中学の頃友達に、リュックを指差して「何が入ってんの?小岩みたい」と言われてから
わたしのYONEXのリュックはしばらく小岩呼ばわりされた。
高校では「おでんくん」のキャラクターをリュックにぶら下げていたせいで
「そのリュックがあればみーどんだってすぐわかるね」と言われ、どでかい荷物がシンボルになった。
大学ではバイト先の店長から「おばあちゃんでも入ってるの?」と聞かれるほど。
わたしだって重たいのは嫌いだ。
できることなら身軽で過ごしたい、荷物なんて本当は持ち歩きたくない。
それでもわたしの荷物は一向に減らない。
10年以上、あれこれ詰め込みすぎてきた。
なぜって、理由はわかっている。
けれど、年齢とともに理由は変わっている。
少なくとも高校生の、それこそ学校に行きたくなくなったあの時期くらいまでは
心配性のせいで荷物をあれこれ詰め込んだ。
特に小学生の頃なんて、優等生ぶっていたから、
忘れ物なんてした日には汗ばんでお腹が痛くなったりして、
だけど誰かに貸してもらったりしたら、忘れたことがバレちゃうから助けを求めることもできず
仮病を使って保健室に逃げたりしたこともあった。(2回くらいそんなことがあったなあ)
そんな要らないスリルを味わいたくなくて
その日にない授業の教科書まで持って歩いたりしていたし、
体操着を上下二枚ずつ持ち歩いていた時もあった。
すべてはすべてを抜かりなく執行するため。
不安感から荷物はどんどん増えていった。
中学生の頃は正直よく覚えていない。
授業自体、あまり教科書を使わなかったし
個人の意見を声高に主張することに恍惚としていた、いわゆる中2病じみた日々で
優等生ぶる必要性がないことに気がついた、そんな時期。
本も友達の影響でたくさん読んだ。電車通学だったからなおさら。
わたしのYONEXは本と中2病でいっぱいだった。
高校生も、塾の教材とかをあれこれ詰め込んでいた。
けれど学校への不信感が爆発してからは、
なるべく学校にいたくなかったから荷物もほとんど持っていかなくなった。
たぶん、わたしの荷物の中身はこの辺りから変わった。
不安感に裏付けられた手荷物が、だんだん自分への期待を具現化していった。
例えば一日の始まり、外出する直前に持っていく本を選ぶとき
あれもこれも読みたい、きっと読もう、と決心して持ち歩くけれど
結局1ページも開かずに持って回るだけの本がある。
読もうと決心して持ち歩くけれど実際は読まない。
やろうと決意して問題集を持ち歩くけれど結局やらない。
そういう、過剰な期待が荷物を増やしているのではないかと、最近思うようになりました。
だから、これからは本当に必要なものを見極める時期だ。
いいかげん、あれこれ背負うのは老体に厳しい。
それに、身軽なほどどこへでも行ける。
高校へ行けなくなったときも、荷物を捨てたら高校から離れられた。
行かなくてもいいんだと気がついた。
そぎ落とすことの尊さを
頭ではわかっていながら、未だに実践できていない。
一人旅のときも、結局そぎ落とすことを目指して身軽で出国したはずなのに、
1.5倍くらいの荷物を引っさげて帰国した。
ほんとうに意味がわからない。
一人旅の時は、もらいものが多かったことと(モロッコでもらった謎の石とか)
季節が急変して冬物を買わざるを得なくなったこととか
書道の道具を持ち歩いていたこととか
なにかと重なってはいるけれど
それにしたって、家出少女みたいな姿だった。
もう二度とあんな重荷で旅には出たくない。
万が一襲われても、あれでは走って逃げられないだろうから。
自分への過剰な期待と願望で膨れ上がった荷物に
命を取られるなんてバカみたい。
少女マンガで有名な「NANA」の初回の方で
主人公のナナの恋人である蓮のセリフで
「ギターと煙草さえあればいい」という一言がある。
前後の文脈は忘れてしまったけれど
今でも強烈にその一言は記憶に残っている。
真に必要なものは意外と少ないという事実。
不安と期待から尾ひれ背びれつけたくなるけれど
実際はいずれにせよ保険であって、身の丈を知ることを恐れてはいけないなと思う、春の夜。
- 2014.03.28 Friday |
- oRdinAry daYs |
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「夢を持つことが正義」である時代に生まれて
昨年、田中先生(
@danseigaku)が授業内で仰っていた、男性学の授業において
「男の子は小さい頃から大きな夢を持つことを求められている」ということが
今でも引っかかっていて頭から離れない。
女の子が「将来の夢はお嫁さんです」と言うのと
男の子が「将来の夢はお婿さんです」と言うのを比較してしまうと
ぼんやりした違和感は否めない、と。
小さい頃、幼稚園や保育園に通っている最中は
男女関係なく、未来のことを憂えたり案じるというよりは、
先へ先へ生きていくことに無我夢中であって、時間の感覚がない。
だから、この先どうなりたいかということを考えるのは重要ではなくて
「ウルトラマンになりたい」
「宇宙飛行士になりたい」
「セーラームーンになりたい」
と願望を語るだけで十分なのかなと。
現実的な道筋を立てなくても語ること自体が評価される、それが子供の特権。
けれど社会的動物である人間は、時間軸に否が応にも縛られる。
その中でしか生きていけないし、生きていくべきだし。
そして、時間軸を歩むうち、成長すると、
願望を語っているだけでは留まらなくなる。
時間を覚えたら、その先のための具体性に想像力を働かせねばならない。
やりたいことはありますか?
それはなぜですか?
達成してなにをしたいですか?
どういう自分でありたいですか?
確かに未来への道筋をきちんと考えていることは素晴らしいことだと思う。
そこに焦点を絞って、逆算して行動に移している人はなおさら。
でも、夢を語ること、原体験から未来を見越すことが、苦痛の人もいる。
考えることを無意識に放棄していると思われるかもしれないけれど
こどもではなくなり、時間軸の流れに乗っかった今、
現実的でない夢を語っても馬鹿にされ、何も語らずとも呆れられ
思考を停止しているわけではないのに何も考えていないだとか
もうこどもじゃないんだからなどと一蹴される皮肉。
結局、誰かを納得させるための夢は無意味だなと思う。
語るものの、スケールの大きさは問題ではない。
重要なのは、スケールの大きい夢を語ることではなく、そこへの行程を語ること。
実現できるかできないかはぶっちゃけ問題じゃないんだろう。
どこまで自分の理想とする未来に対してプランニングしているか、ということが重要であって
そのために何をしているか、今のくらいの割合が達成されているのかということは
えてして夢を語る際の焦点にならない。
世の中に夢と認められないものなんて星の数ほどあって
うち実現せずにしぼんでいくものの方が多いのは
最終的に「夢を語ること」に本質があって、実現することは二の次である場合が多いから。
だったら自分の基準で見極めたほうがいい。
「それ、ほんとうにやれるの?」と言われる夢を無理やりでっち上げて実現できるか未来へ不安を募らせるより
「今月頑張って仕事して、あの日あの場所で見たかわいい靴を買う」と決めて毎日頑張るのも立派な夢への行程だと思う。
誰かに話したとき、それが夢として解釈されず
「しょーもな!」と言われても、自分が願望として思い描いたものであればそれでいいと思う。
というか、それ以上でもそれ以下でもないのが夢ってモノなんじゃないのかな?
「夢を語ることが正義」とされると
想像した自分の未来が、一体どう捉えられるかということに基準が定まって
あれこれ付随してごてごてして、本質的に自分が求めていることがわからなくなってしまいそうだ。
夢、ということばすら、なんて定義が曖昧なのだろう。
夢として掲げた時点で実現不可能だと考える人もいるし
願望の一環として考える人もいる。
わたしにとっては「夢」は「未来」に近い。
理想でもなく、妄想して、なんとなくこうなるだろうなという願望と直感が織り交ざったもの。
だから日常で考えているちょっと先の「夢」なんてコロコロ変わるし
うまくいかないこともたくさんあるし、実現しないことだってたくさんある。
でも、「あれしたい」「これしたい」というのは絶えず湧き出ていて
それを口にすると「夢を語る」人になる。
その「夢」というものへの高尚なイメージ、なんなんだろね、もっとシンプルだったはずだけれど。
自分と向き合っていれば、なにをしたいか、なにをすべきか自ずと見えてくる。
それが何かに操作されたかのように感じたものだったとしても
やるやらないは自分で決められる。
そろそろ夢という言葉がゲシュタルト崩壊してきたけれど
本質的に未来への漠然とした不安感というのは誰しもが持ちうるものであって
定期的に鼓舞してあげないとやってらんないんだよね。
ヨーロッパにいた時や、西欧諸国の友達と話すとき
将来の夢に対する熱量や憂えの少なさに、最初は拍子抜けしたものだ。
ほぼ100%、「そんなこと、その時にならないとわからないよ。」と言われて会話は終了。
それ以上に思考が展開していくことはない。
けれど、それは絶望から予測した結果ではなくて
未来の不確定性はアンコントロールであるという基準があって、それに起因する不安は過剰な心がけだという感覚。
今、この時なにをすべきかはひとそれぞれちがう。
それをひとつずつやり遂げることでみえてくる未来が
夢と呼べるのかもしれないなあと思う。
- 2014.03.23 Sunday |
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モラトリアム野郎の音のない一歩
特に之と言った後悔の念に伏したことはない。
良いと思って選んでいるのだからどうなろうと決断したわたしの知ったこっちゃない。
決断した自分はその時点で責任を放棄している。
じゃ、がんばってと行動に移すわたしにバトンを渡す。
息を切らして頑張って走る。
そういえばこのバトンはどうして握っているんだっけ、そもそもどうして走っているんだっけと
肺が縛りつけられる痛みで喉が熱くなる。
でも走るのはやめない、途中で遅くなったり足を引きずったりするけれど
とにかく足は前へ前へ。
一生モラトリアム野郎だよ
知らないあいだにいろいろと揶揄する言葉が出てきているけれどさ
それで自虐している人たちは
ことばを与えられたことで居場所を得たように、弱々しく笑うけれど
そもそも元々居場所はあちこちにあったと言いたい。
ただ、一生モラトリアム野郎の居場所が
自虐すればするほど霞んでいって、自分の居場所を狭めているのだ。
声高らかに言えばいい、恥ずかしいことでも卑下することでもない。
だってわたしもモラトリアム野郎、どこまで生きても吹っ切れる気がしないもの。
もちろん、だいぶこれでもシンプルにはなった、つもり。
やりたいこともそのためにどう動くかも
つべこべ言わずにハイ、と分かる。
そこに対する懐疑性も殆ど皆無。
けれど行く先々で待ち構えるのは無力感。
悩むほどに生きづらい。
歳を重ねる事に、どんどん協調性が無くなっているような気がする上に我が儘に動く事ばかり身軽になって
サイクルをそつなく回すことに対する持久力も耐久性も脆弱そのもの。
あれっ、生きていけるかしら(世の中で)と思うけど
とりあえずまだ死にたくないし、心臓はちゃんと動いているし
カスみたいな自分でも、必要として欲しいから応えたいという人も幸い多いし
だったら生きねば、死ぬのはいつでもできるわと思えば
刹那に希少性を置くのは必然じゃない?
過去の諸々はある程度美化されて、しょげたわたしを慰める。
けれど実体はもっと生ぬるい。
過去の栄光だって挫折だって後悔だって
糧になるまで肥えるのに何十年もかかるものだ、腐葉土が完全に大地に溶けるのと同じだ。
だから、一生懸命になればなるほど無力感に首根っこ掴まれて
やっていること全部無意味だって唾を吐きかけられたようで
あれっ、今まで生きていたのかしらわたし、ってなって
美化された過去が急に土くれみたいにぼろぼろ崩れていく、虚像。
でも確かに生きてた。
何も生み出せなかったけれど
何も残せなかったけれど
あの時わたしの頭の中はぎゅうぎゅうに、ひとりひとりのことでいっぱいで
携わる一日一日があっという間で
文字通り寝ても覚めても同じことばかり夢中になって考えていた日々がある。
決して美しくはない過去。
わたしの無力を強調するだけの過去。
人生で唯一の後悔。
まるっきり同じ結果で報うことはできない。
わたしの生きる時間も、周囲を彩る人々も、すっかり変わってしまったから。
考えたいことだけじゃなくて
考えなくちゃいけないことが多くて
あれっ、そもそも何を考えていたんだっけわたしって
自分の思考回路だっていうのに整理整頓できない。
それでも思い出すと今でも悔しくて涙が出そうになることもある。
自分のやりたいことに素直になれなかった悔しさ。
今じゃ考えられないくらい神経質で
相手を思いやれていたのかもしれないけれど
誰かを大切にするときは、まず自分を大切にしなければ、結局どちらも大切にできない。
いい子でいたいモラトリアム野郎は、
人生最大の後悔を
自分を殺すことで作り出したわけだ。
背中合わせの真偽。
一貫性がある物事なんてないと思う。
いつだってブレブレ。
将来の夢?知るかよ。
どんなおとなになりたい?なりたくないよ。
未来に希望を託すのはやめました。
未来じゃなくて、救ってくれるのは今しかない。
絶望に突き落とされるのも、這い出るのも未来じゃない。
未来は遠くにあって良い。
夢物語を語るときにだけ、雲の上あたりに漂っていればいい。
わたしの後悔は
思いがけない出来事の交差で
静かに大地に溶け始めたよ。
- 2014.02.03 Monday |
- oRdinAry daYs |
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旅は楽しいものじゃない It's not just fun to travel.
知ってる。
It's unchangable.
世界中の無駄なものは、大半がその色合いすら認めてもらえず投げ捨てられてしまうこと。
「無駄なもの=不要なもの」
という方程式が自動的にかまかり通る資本主義。
Almost everything is meaningless if they don't make money and work as gears of society.
It's a system of capitalism.
そろそろダサくはなかろうか。
ピリオドが目前スレスレに近づいている。
でも今動かしているのはもちろん資本で、それを乗り越えるだけの張り合いがなければ、視界にも入れてもらえない。
だから昨年は、なるだけ形になることを量産し続けた、つもり。
But I suppose that it's not gonna work as a social system.
Capitalism will be finished.
But nowadays almost are controled by money and we have to obey it.
That's why I kept writing and challenged something whichever I was interested in or not.
ひとりひとりの人間が、パッケージ化されて売られ捨てられる時代。
お値打ちはいくら?、という殺し文句に耐えうるだけの、着色料・添加物・遺伝子組み換え・嘘嘘嘘嘘嘘嘘
積み重ねたところでハッタリ、そのハッタリが生む売り言葉と買い言葉。
無添加100%だなんて、誰に調べさせたの?
強欲が唾を飲む。
Recently we should give us brand images one by one.
It's important to explain to others what we can do and what are advantages to be with you.
So we try to behave better than real.
Nobody can penetrate. Nobody can play concictently.
一人旅は思った以上にわたしの根っこを、あったかくしてくれた。
でも、同時に気づいてしまった。
わたしにとって、旅の意味なんて無いってこと。
たまたま旅、という言葉しか当てられなかっただけで、手段や方法でしかない。
自分の劣等感を覆して、新しい知識と好奇心を開拓できて、からだが震えるほど感情がうずけばいい。
そしてそれが、旅だったという結論。
And how about me?
In my case, a travel last year is one of my priceless experiences but it doesn't have any value for society.
I dind't have any idea to make me valuable exept traveing.
Travel is just one of result, just a tool.
I was starving of sensational things and wanted to escape from being rude in daily lives.
正義感も使命感も疑問も苛立ちも達成感も、動機ではなかった。
でも、もちろん外へ出たら各所に土着した生活があって、
人の営みが、わたしがくしゃみをした瞬間に生まれたり消えたりしている。
そういった、なんでもないことが、突然身近に迫ってきたら、見て見ぬふりなんてできなくなっただけ。
そういう体感が、だんだん鈍ってくることはおそろしくて
というのも、わたしにとっての判断基準がぼやけてくるから、で。
I don't have a sense of justice either anger even now.
But I met many people during trip and it was a little bit changed.
It's not unimportant thing for me whatever happen in world.
I cannot be silent and pretend to not watch anything.
I'm afraid of losing this poitn of view because it means to lost my basement to think about many things.
旅に出たら、おそらく驚く、手に余る程の時間に。
旅に出たら、することが無い。どうしたらいいかわからなくなる。
今までやらなきゃいけないことで埋め尽くされていた時間が
やらなきゃいけないことから解放されたとたんに、自由という名の束縛が始まる。
I found myself that have too much time nothing to do during trip.
I didn't need to do anything during trip. And it brought me confused.
Before leaving Japan I had had a lot of things to do.
However upon letting me do everything it started to restrict me instead of true freedom.
旅に出る前に当たり前のごとく考えていた、仕事や学問やお金のこと、
色恋沙汰とか人間関係とかなんやかんや世俗のことがらを
考えなくてもいいよと言われれば不安になり、自分の過去や未来、土地の人々と歴史に思いを巡らし、
到達するのは、無知という境地。
I don't need to be serious for gossips, relationships, jobs and study.
But it made me anxiety and I found myself that I don't know anything about myself and world.
今まで、どれだけ自分の足が立ってる土地のことを考えてこなかったのだろう
どれだけ、自分のしゃべっている言葉のことを考えてこなかったのだろう
どうして、自分はこんなに無知なのだろう
考えなくちゃいけないことに埋もれていた、もっと根源的な原始的な好奇心が湧いて、
途方もなく壮大なトピックにまみれたとき、初めて旅が旅になってくる。
I regreted; Why didn't I think about my country? Why I don't know my languages? And Why am I so unenlightened?
And it's time to travel to find such questions inside of me.
だから、旅は絶望から始まる。
心躍る瞬間は、その隙間隙間に極彩色の光を放ってきらめくから
帰国後には、なんとなく「旅はいいよー!」などと軽口をたたく。
そんな無責任な旅人にはなりたくないな、と思う。
Trip is born from hopeless.
Even if you have great experiences while tirp, it would be beautified.
And if you are asked how was your trip by your friends, you could answer "it was wonderful!" without remembering your sufferring.
But I don't wanna be a such rude traveler.
日常生活を一秒一秒、緊密に過ごすことも大事。
営みが成り立ち、根源的な疑問の横を安易に通り過ぎることができるのは、旅人じゃない人たちだけ。
考えることを放棄していたことにすら気づかない、それは自然なこと。
「それどころじゃないよ」って、暗黙の了解を、雰囲気ごと作り出す。
I need to spend ordinaly days now to live in here.
And only traveler don't need to be serious about common.
If you don't want, you don't need and if you want, you can think deeply.
But it means that you don't have daily lives in there as same time.
You have to keep traveling as long as you can't stop thinking of basement topics like spritual things and your life, countries and histories of human.
けれど、目を開けたまま降り過ごして、特急電車で終点まで逝っちゃうほど生き急ぐ必要があるかしら。
どうせ生まれてきたのなら、生きることについてしくしく情けない思考を巡らしてしまえ。
答えなんてない。答えは常に塗り替えられている。自分で。無意識に。
It's not meaningless.
You can't realize it if you won't travel.
There's no answer. You'll create it uncounsciously.
だから、無駄なことなんて何一つない。
社会的に無駄?そりゃそうだ、考えなくても逝けるもん、特急電車でね。
そもそも無駄の基準を作り出している社会という虚像物を、あなたは30文字で簡潔に説明できる?
だだっ広く広がる原稿用紙に、説明してもし足りない、そんなぼやけた残像に
自分の生きる基準を当てはめるなんて、なあんて勿体無い。不甲斐ない。
To think about our lives don't make any money.
But can you explain what is the most important things for everyone in this world?
You have to have your standards of value.
自分の社会を創ろう、どうせなら、その中で生きよう。
その社会の土台がちょっと脆くなってきたら旅に出よう。
旅は何も教えちゃくれないけれど、何も得ない旅はない。
手の内が空っぽだと気づくところから、よういどん。
自分と一対一の持久走だ。
Create you lives and live in there.
If you can't make it or be tired, have a trip.
Traveling don't tell us anything, but we can always find something wile trip.
Trip is like life.
You have marathon with yourself as long as you live.
Photo Credit:
DirtyBootPrints via
Compfight cc
- 2014.01.04 Saturday |
- oRdinAry daYs |
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黒幕と翻訳 MIWA×NODA
今でもはっきり覚えているが
高校時代の演劇部の、序盤の地区大会でわたしは重要なシーンの台詞を噛んだ。
噛んだ、というよりは、忘れたという方が正しいかも知れない。
所詮地方の高校の演劇部などと一蹴されては元も子もないが、
あのときのわたしはそれに心血を注いでいた、と記憶している。
たしか、命の尊さ、みたいなことをとつとつと語るシーンで
いよいよ物語がハッピーエンドへと加速しようかという時に
わたしははっと固まった、頭が真っ白、というのはああいう時を言うのだろう。
今まであたたかった観客が一気に遠のいて不審な目をこちらに向ける傍観者に変わった。
同じシーンに居合わせた友達であり部員であり役者である彼の呼吸が変わったのもわかった。
舞台はこうしたハプニングなんて無い方がありえない。
けれど観ている最中に、とりわけ物語の筋とはまったく違った方面において
予期せぬことが起こったときに、ぐっと身構えてしまうもので、
あれ、どうしたんだろうと不安が芽生え、大丈夫かなと心配しながら
目を両手で覆い、見なかったことにしよう見なかったことにしておいてあげるからどうぞ滞りなく進めてくださいそして無事終わらせてくださいと、台詞を噛んだその0.01秒くらいでそう思い、実際には居住まいを正すなどしてもぞもぞし、目を覆うにはあまりにも良心が、好奇心が痛み、そしてその雷みたいな瞬間を突き抜けるとあっというまに体制を立直す、無論プロはそう簡単には崩れないのだけれど、とにかく難なく波乗りしていく様を見てほっと安心し、そうそう大丈夫だと思っていたんだよ、さすがだよねえと、あなた何様的な視点を覗かせながらスリリングに舞台を楽しむ、そういう人は多いのではないでしょうかどうでしょうか。
帰国してもう半年以上経つし、録りだめていた舞台のDVDなども見尽くしてしまったけれど、
野田さんの舞台は去年の「エッグ」を見逃して以来で、5限終わりに池袋へ向かう足などはスキップなんてしちゃって
仕事帰りのサラリーマンの背広と背広の間を適当なタップダンスみたいに駆け抜けていったものだから
通り過ぎた人は妙ににやにやした女の子(と、まだ言ってもいいですか)が足取り軽く走っているのを見て奇妙に思っただろう。
美輪明宏氏を、ご存命の方を、”遊ぶ”、というのはいかがなものか。
否、いかがというのは手段のことであって、野田さんの手にかかれば
美輪さんも分厚く幅広く時間軸とかそういう現実の枠組みから逸脱し得ると思っていたから
まあ別に不謹慎なことなんてこれっぽっちもないと思っていて
でもこれっぽっちくらいは、畏怖が込められているのは手に取るように分かって、
むしろこれっぽっちどころか、野田さんが美輪さんに踊らされているんじゃないか
それも、手玉にとるような一方通行のものじゃなくて
二人で手を取り合ってダンスフロアで踊り、時々美輪さんが、小柄な野田さんをくるくる回して笑ってる、みたいな
そういうお互いの肝をきちんと突きあっているような、「遊び」が、そこにはありました。
物語のどこまでが「わたしたちが知る」美輪さんで、どこまでが野田さんの「遊び」であるかは
わたしのお粗末な知識では分かりかねたけれど実は小出恵介さん演じる「翻訳家」の役どころが
ものすご〜くキモだったのではないのかと思う。
男であるか?
女であるか?
もうこの問さえ、時代錯誤であるかも知れない。
昔は何かのアンケートだったりなんだったりで、必ず
「女・男」
と
真ん中に丸い点があって、それをクラスのお調子者なんかが
「おれ真ん中に丸付けるからオカマ〜」
みたいなことをおどけて言ってわらっていたけれど
あの小さな丸のなかで窮屈そうにしている人は案外近くにいるかもしれない。
そしてなにも言わずにうずくまって、自分たちに与えてくれる名前を待っているのかもしれない。
黒い小さい丸ではなくて、「翻訳」してくれるひと、
彼らの気持ちと立場を、世間に約束された確実な立ち位置から名付けて
存在させてくれる人。
舞台の中では、外国と日本との翻訳家として立ち回っていたけれど
彼は結局戦時中と戦後、外国と日本、男と女という
区別された世界をつなぐ唯一の架け橋であった、と思う。
だから歳を取らなかった。
歳をとったら、区分されたどれかに属してしまう。
彼は一人、別の次元を生きていなければならない。
傍観者でなければならない、
そして
それは観客と同じ視線を併せ持つ。
つまり、NODA・MAPの今回の「MIWA」では私たち観客は
翻訳者、傍観者、そして共犯者として参加することになる。
物語は天草四郎の乱を交錯させながら
美輪さんの人生をなぞる。
先述したとおり、わたしは何が真実で作り話なのかまで
きちんと分かっていたわけではないが
それは問題ではないのかもしれない。
敗戦という受け入れがたい真実、
罪責感に苛まれながら、なんとか生きていこうとする人々、
その人々との交差しながら作られていく人間関係、生活、
そしてそれが積み重なってできる歴史、現在。
妄想の世界と現実世界、女と男、愛憎の表裏一体の狭間を
行き来できる美輪さんだからこそ見えた「じぶん」と世界の距離感。
それが安藤牛乳(詳しくは舞台を観てください)の出現と消失によって描かれる。
それから全体的に色鮮やかな衣装、化粧が印象的だった。
野田さんの舞台衣装はいつも抽象度が高いけれど、今回はとても具体的だった。
それは美輪さんの人生を苦しめて彩って飾って振り回してきた数々の「時間」の象徴だと思う。
池田成志さんの衣装も、ゴッホの絵画でできていたのも
「芸術」そのものを表しているというよりは
芸術を剣にして飛び回るオーナーの役どころを表現したかったのではないか、と。
観劇後はやっぱり赤い椅子から立ち上がれなかった。
以前「ザ・キャラクター」を観た時もそうだった。
でも今回はちがう感覚がぐっとのしかかってきたから。
題材が違うから当たり前だけれど
今回はとにかく、踊り疲れた、といった感じ。
すべてを見届けるのはこんなにも疲労が伴う。
でも、踊り終わったあとというのは清々しい。
そして、美輪さんはまだ生きている。
だからわたしたちはその観察を今後も続けなければならない。
人一人の人生を仮にも見収めるというのは
それくらい責任と重圧が伴う。
東京芸術劇場の赤い椅子に磔になった観客は多いに違いないし
これからも増えていくに違いない。
わたしたちは美輪さんの人生の目撃者であり
美輪さんの人生で踊り尽くした野田さんの
共犯者でもある。
今からパンフレットを読むのが楽しみです。
- 2013.10.22 Tuesday |
- tHe sTAgE |
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まるでそれは散歩、長めの taking walks is far from money but...
こどもを産む夢を見た。
なにかと、出産する夢が多い、それは小学生くらいからであるような。
I had dream which I gave birth at last night.
I sometimes have had such dreams since I was a elementary school student.
ものを作ることってキツイな。
つまり「産む」ことってすごく苦しいことなのね。
ゼロから、白紙から、積み重ねてゆく作業のなんと地味なことよ。
It's so hard to create something.
I mean, to creat is same as giving birth.
Both of them need pain and agony.
粕、綿埃になるまえのちりぢりになる空気みたいな塵を
誰が見つけてくれるだろう。
How somebody find small creation like dust?
Nobody.
それこそ偶然太陽の光とかがあたってさ
きらっと光ったのをその一瞬、60億人くらいのうちの
何びとが見つけてくれるんだろうってそんなこと考えたらやることなすこと地味すぎて儚すぎてやんなっちゃうから
ある程度、綿埃くらいに可視化できるまでは自己マンで推し進めるしかないんだよね、ああ苦しい。
Even if sun light shines on dust, how many people recognize the light?
It's meaningless to think abou it.
If I start to suppose how assess my results, I can't continue everything what is right for me.
ランナーズハイみたいな、ライターズハイみたいなのがあればいいのにね!嗚呼!
Don't we feel Writer's high like Runner's higt?
大学が始まって、ずっと本読んだり本読んだり英語やったり手芸やったり書いたり本読んだり。
I read a lot of books, make crafts, learn language and write everyday since I came back to Japan.
日本に帰ってきてから不必要な焦燥感から開放されたと思えば
いきがってる厭世家かと思われるのかな、めんどくさいなもう。
If somebody see that I do what I wanna do, they can think that is selfish and I'm pesimist.
That's extreme.
I'm fed up.
すきなことを時間を忘れて延々やったりとか
机に向かって地道に語学を勉強したりだとか
知識をもとめて本を読みあさったりだとか
今までとにかく体を動かすことで得ていたうやむやな充足感とはまた違う、
ゆるやかで綿菓子食べてるみたいな感覚。
It's not usually said that be busy is good.
I thought that to have a lot of plans is the evidence that I enjoyed days.
But that's wrong.
口をつけるとあっという間に溶けちゃって
あれこれちゃんと吸収できてんのかなってちょっと不安になるけど
でも確実に糖分は蓄積されている。
Even now, I sometimes feel that I have to do something.
like, for future.
doing job hunting, internships, part time jobs... etc
じっと座っていること=何もしないじゃないなんて、今更気付くなんて馬鹿ね。
But it's useless.
I'm such fool to misunderstand it.
電車を使わないで、一つの駅の間歩いてみるとか
やらなきゃいけないこと終わってまだ日が出ていたら、カフェで一冊本を読むとか
ちょっとふうって息をつく余裕がないと、
およそ自分の足元しか見えなくなるこわさ。
If I'm too busy to find good things like blue sky, cute flowers, nice cafe... I could lose my life.
足元、だから、あたまの先に電柱があっても気づけないこわさ。
Busyness make us blindness.
盲目的な猛進と、
目標の無いマイペースほどこわいものはないよ。
Otherwise I can say that I need aims.
どこかしら、帰る場所があるからがんばれるってものだし
どこまでも放浪していけるほど、わたしにはまだ用意がないわ。
We can do best because of we have home.
If I can't go home anywhere, I can't do anything.
今はちょっともどかしくなるくらい道草に夢中なわたしだけど
電柱も道中もまだわたしの視界の端々に映ってて
まだ先があるってわかるから
いつまでも立ち止まり続けることはNO、無責任に放棄はしたくない。
Now I focus on "useless things" which don't earn any money.
But I pay attention not to do these without any aims.
その頃合と歩合が、難しいんだけどね。
But it's difficult to control it.
- 2013.10.16 Wednesday |
- oRdinAry daYs |
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caution myself
Maybe it's so hard to control myself without any friend.
I have, but I have to face it by myself.
Everybody do it, but it's totally difficult.
We can be rude, selfish and arrogant.
So we need to keep recognizing ourselves.
We'Re easy to change our minds so we sometimes do what we don't wanna do and say what we don't wanna say.
That's contradictions.
But almost lives have contradictions.
Because we don't know what we will see, hear and think tomorrow.
I think, I think that smart people do same things, it's just keep doing what they believe.
But normally we can'T believe ourselves.
Why not?
I always get tired of something before achieving.
That's the reason why I'm so weak.
The most interesting thing is just beginning of everything.
It seems for me to be very flesh because I've never seen it before.
But everything is gonna be usual, nothing special.
What a extravagant person!
It's no more than touch a part of these.
To more know what it is, to be more interesting what it is.
I need keep going.
Don't be rude, get rid of neglect.
- 2013.09.26 Thursday |
- oRdinAry daYs |
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